■サーキットブレーカー

1707年、フランス軍はフランドルに軍を集めてイギリス・オランダ軍に対する反抗を開始した。マールバラ公はこれに対してイギリス・オランダ・オーストリアの連合軍を結集し、アウデナールデの戦いでフランス軍を破った。翌1708年、ルイ14世は和平を提案したが、フェリペのスペイン王位継承をはじめとして連合国の認められない要求が含まれていたため戦争は再開され、マールバラ公はパリ進撃を目指してフランス領フランドルに侵入した。連合軍とフランス軍はマルプラーケの戦いで激突し、連合軍はフランス軍を敗走させたものの、死傷者数万人の大損害を被り、戦線はフランドルで膠着した。 この頃までに、オランダやドイツ諸邦は既に戦争の継続に倦んでおり、またイギリス国内でも和平を望む声が高まっていた。1710年、自身がイギリスの戦争推進派の中心でもあるマールバラ公がアン女王の信任を失うと、イギリス政府も和平に傾き始めた。 ヨーロッパで戦争が繰り広げられている間、アメリカ大陸ではイギリスと外国為替証拠金取引 の間で植民地を巡るアン女王戦争が開始された。イギリスはフランス領カナダのケベックを狙い、フランスはニューイングランドの英国植民地を狙ったが、いずれも成功しなかった。ただイギリスは、フランス領アカディアの占領に成功している。 1711年、イギリスのマールバラ公は軍資金横領が発覚して失脚し、また同年にオーストリアのレオポルト1世の後を継いでいたヨーゼフ1世が死去し、弟でスペイン国王候補であったカール大公がオーストリア大公・神聖ローマ皇帝カール6世として即位すると、イギリスはカールのスペイン王位継承でハプスブルク家の大帝国が再現することを恐れ、フェリペ5世のスペイン王退位要求に消極的となった。 1712年、イギリスとフランスとの間で和平交渉が開始され、フェリペ5世は将来のフランスとスペインの一体化の懸念を払拭するために、フランス王位継承権を放棄することを宣言した。同年、散発的に続いていたオーストリアとフランスとの戦闘でフランスが勝利(ディナンの戦い)を収めたことにより、全面的な和平の機運が高まった。これによりスペイン王家に反逆したバレンシアとカタルーニャは反フランス同盟側から見捨てられ、フランス・スペイン軍に投資信託 された。 1713年、各国はユトレヒト条約を結び、長年に及んだ戦争を終結させた。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを、サヴォイア公国にシチリア(後にサルデーニャと交換)を割譲、イギリスはジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを獲得し、反フランス同盟はその代償としてフランス王孫フィリップ(フェリペ5世)のスペイン王即位を承認した。1714年フランス王国とオーストリアとの間でラシュタット条約が結ばれた。 スペイン継承戦争は、日経225 やオイゲン公の活躍によりフランスは各地で敗戦を重ねたが、反フランス同盟は足並みの不一致から全面的な勝利を収めることができなかった。特にオランダは、フランスの軍事的な強大化を恐れる一方で、貿易立国としてフランスとの経済関係が重視されていたので、フランスを完全に敗北させることを望んでいなかった。その結果、反フランス同盟の最大の目的であったフェリペ5世のスペイン王位継承は阻止することができなかったが、この戦争で17世紀の西ヨーロッパで最強を誇ったルイ14世のフランス軍のヘゲモニーは抑制され、ヨーロッパの国際関係は新時代を迎えることになった。 七年戦争は、ヨーロッパにおいては、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)及びドイツ諸侯との間で戦いが行われた。並行して、イギリスとフランスの間では北アメリカ、インド、各大洋上で陸海に渡る戦いが繰り広げられた。プロイセンとオーストリアとの戦争を第三次シュレージエン戦争、北米での戦争をフレンチ・インディアン戦争、インドでの戦争を第二次カルナティック戦争とも呼ぶ。これらの戦争を総称して七年戦争と呼ぶこともある。 オーストリアがフランスとFX を結んだ外交革命、400万対8000万と言う圧倒的な人口格差など、当初プロイセンは敗勢を余儀なくされ、その命運も尽きるかと思われたが、プロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の適切な戦争指導と、エリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反によって戦局は打開され、幸運にも戦争はイギリス・プロイセンの側に有利に帰着した。 オーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領であったシュレージエンはプロイセンへ帰属した。シュレージエンの奪回を意図したオーストリア女帝マリア・テレジアは、フランスとの長年の対立関係を解消してフランス、ロシア女帝と結び(外交革命)、プロイセンへの復讐戦を画策した。 折から、1755年9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立はヨーロッパのハノーファーにも飛び火した。この機に乗じてオーストリアが対プロイセンの開戦に踏み切ることが確実な情勢となり、オーストリアの開戦意図を察知したフリードリヒ大王は、予防戦争として先制攻撃に打って出た。 フリードリヒ大王は農業生産力の高いザクセンの兵站基地化を狙い、1756年8月29日、資産運用 と同時に先制攻撃をかける。10月1日、プロイセン軍はロボジッツの戦いでザクセン・オーストリア軍を撃破した。続いて、オーストリアの準備不足に乗じハプスブルク領のベーメンへ侵攻、プラハを包囲する。プラハを救援に来たダウン率いるオーストリア軍に対して、プロイセン軍は1757年6月18日のコリンの戦いで奇襲攻撃を試みるが、逆に撃退されてしまう。 西からはフランス軍が侵攻を開始し、プロイセンは苦しい状況に立たされる。ここで大王は巧みな内線作戦を実施、11月5日のロスバッハの戦いで名高い斜行戦術を駆使してフランス軍に勝利し、200km以上を機動して、12月5日のロイテンの戦いでも斜行戦術により優勢なオーストリア軍を撃破した。プロイセンの同盟国のイギリスは、ウィリアム・ピット(大ピット)が国務大臣として戦争を指揮すると北アメリカ大陸などのフランスの植民地の攻撃に専念してプロイセンの為に援軍や艦隊を送ることはしなかった。 東からはロシア軍が侵攻を開始、東プロイセンを占領しベルリンへ迫るが、1758年8月25日、プロイセン軍はツォルンドルフの戦いでロシア軍を破った。しかし10月14日のホッホキルヒの戦いでは、ダウン指揮下のオーストリア軍に払暁攻撃を受け、歩兵の3分の1と砲兵の大部分を失う打撃を受ける。訓練された兵士の損失は大王の戦術展開を困難にした。そして1759年8月12日、クネルスドルフの戦いで、5万3千のプロイセン軍は7万のオーストリア・ロシア連合軍に壊滅的な敗北を喫する。大王自ら敵弾にさらされ、上着を打ち抜かれ乗馬は撃ち倒されるありさまであった。ベルリンは無防備となり、プロイセンの命運も尽きるかと思われた。 ところが、オーストリア・ロシア連合軍は無防備のベルリンへ進撃せず、最大の危機は去った。連合軍内でベルリン総攻撃のために協定が結ばれたが、オーストリア軍が守らなかったために、ロシア軍が冬営に引き返してしまったためである。プロイセンとフリードリヒ2世は一命を取りとめ、このことは後にブランデンブルクの奇跡と呼ばれた。 1760年に入ってもプロイセンの苦しい状況は続いた。8月15日のリーグニッツの戦いでオーストリア軍に勝利するが、その後オーストリア・ロシア連合軍によってベルリンを一時的に占領されてしまう。11月3日にトルガウの戦いで再度オーストリア軍に勝利するものの、プロイセン軍も大きな損失を被る。もはやプロイセン軍はぎりぎりの状態まで消耗していた。だが苦しい状況は相手側も同じであった。フランスは北米やインドなどの植民地でイギリスに完敗し、プロイセンとの戦争どころではなくなっていた。フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じブルボン王家のスペインに応援をもとめた。しかしスペインの参戦も戦況を悪化させるだけであった。イギリスは大艦隊を編成してスペインの植民地であるキューバのハバナやフィリピンのマニラを占領してしまった。オーストリアも戦費の負担にあえぎ、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならなかった。同様の理由により、1761年10月にはイギリスがプロイセンへの支援を打ち切った。 1762年1月にロシアのエリザヴェータ女帝が急死。後を継いだピョートル3世はフリードリヒ大王の信奉者であったため、プロイセンとの戦争を中止した。オーストリア単独での戦争継続も困難となり、停戦交渉が始められた。最初に講和したのはスウェーデンで、1762年5月にスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカを介してプロイセン、スウェーデン間との和議が成立した。同年11月、フランスの主導でイギリス・フランス・スペインによるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、翌1763年2月10日、英仏間でパリ条約が締結された。2月15日にはプロイセン、オーストリア、ザクセンがフベルトゥスブルク条約を締結し、七年戦争は終結した。 講和条約により、プロイセンのシュレージエン領有が確実なものとなった。プロイセンは強国となったが、以後フリードリヒ大王が戦争に与することは無くなった。 また、北米、西インド諸島、インドにおけるヨーロッパ各国の植民地の帰属が再編され、フランスはインドからほぼ全面的に撤退し、北アメリカの植民地のほとんどを失った。代わって北米とインドでの植民地獲得競争におけるイギリスの優位が決定的になった。しかし、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、植民地への課税に訴えるが、これが仇となりアメリカ独立革命を引き起こすことになる。