■財務上の特約

翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に生まれ変わった。トルコ共和国は1924年、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン王権は完全に消滅した。 四重冠を着用するスレイマン1世の先物取引 。この四重冠はスレイマンがイタリアの金細工職人につくらせたもので、ローマ教皇の三重冠を意識したものだと言われている。オスマン帝国の国家の仕組みについては、近代歴史学の中でさまざまな評価が行われている。ヨーロッパの歴史家たちがこの国家を典型な東方的専制帝国であるとみなす一方、オスマン帝国の歴史家たちはイスラムの伝統に基づく世界国家であるとみなしてきた。また19世紀末以降には、民族主義の高まりからトルコ民族主義的な立場が強調され、オスマン帝国の起源はトルコ系の遊牧民国家にあるという議論が盛んに行われた。 20世紀前半には、ヨーロッパにおけるビザンツ帝国に対する関心の高まりから、オスマン帝国の国制とビザンツ帝国の国制の比較が行われた。ここにおいてビザンツ帝国滅亡から間もない時代にはオスマン帝国の君主がルーム(ローマ帝国)のカイセル(皇帝)と自称するケースがあったことなどの史実が掘り起こされたり、帝国がコンスタンティノープル総主教の任命権を通じて東方正教徒を支配したことが東ローマの皇帝教皇主義の延長とみなされる議論がなされ、オスマン帝国はビザンツ帝国すなわち東ローマ帝国の継続であるとする、ネオ・ビザンチン説もあらわれた。 このようにこの帝国の国制の起源にはさまざまな要素の存在が考えられており、「古典オスマン体制」と呼ばれる最盛期のオスマン帝国が実現した精緻な制度を考える上で興味深い論議を提供している。 オスマン帝国の国制が独自に先物取引 を遂げ始めたのはおおよそムラト1世の頃からと考えられている。帝国の拡大にともない次第に整備されてきた制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、君主を頂点に君主専制・中央集権を実現した国家体制に結実した。これを「古典オスマン体制」という。 軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられたティマール制による騎兵スィパーヒーと、中央のカプクル(「門の奴隷」の意)常備軍団からなり、カプクルの人材は主にキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展する。ちなみにこの時代、欧州はまだ常備軍をほとんど持っていなかった。 帝国の領土は直轄州、独立採算州、属国からなる。属国(クリミア、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ヒジャーズなど)は君主の任免権を帝国中央が掌握しているのみで、原則として自治に委ねられていた。独立採算州(エジプトなど)は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけであった。直轄州は州(大軍管区)、県(小軍管区)、郡(法官管区)に分かれ、郡ごとにカーディーが任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ(県知事)、ベイレルベイ(州知事)と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。 中央では、君主を頂点とし、大宰相(サドラザム)以下の宰相(ヴェズィール)がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル)、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に君主が政治の表舞台から退くと、大宰相が君主の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。同じ頃、日経225 の御前会議事務局から発展した官僚機構が大宰相府の所管になり、名誉職化した国璽尚書に代わって実務のトップとなった書記官長(レイスルキュッターブ)、大宰相府の幹部である大宰相用人(サダーレト・ケトヒュダース)などを頂点とする高度な官僚機構が発展した。 大宰相府(バーブ・アーリー)の門中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「FX 初心者 の長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、大宰相府のもとで官僚機構の発展した17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。 これらの制度は、19世紀以降の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。例えば、書記官長は外務大臣、大宰相用人は内務大臣に改組され、大宰相は御前会議を改めた閣議の長とされて事実上の内閣を率いる首相となった。 しかし、例えば西欧法が導入され、世俗法廷が開設されても一方ではシャリーア法廷がそのまま存続したように、イスラム国家としての伝統的・根幹的な制度は帝国の最末期まで廃止されることはなかった。帝国の起源がいずれにあったとしても、末期のオスマン帝国においては国家の根幹は常にイスラムに置かれていた。これらのイスラム国家的な制度に改革の手が入れられるのは、ようやく20世紀前半の統一派政権時代であり、その推進は帝国滅亡後のトルコ共和国による急速な世俗化改革をまたねばならなかった。 オスマン朝では、神学や哲学のような形而上の学問ではアラブ・イランのものを上回るものはあらわれなかったと言われるが、それ以外の分野では数多くの優れた作品を残した。 イズニク陶器の水差し(16世紀頃)建築は、イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。モスクなどに現存する優れた作品が多く、17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブルのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的であるが、アルメニア人の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が名高い。 陶芸は、16〜17世紀のイズニクで、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心はキュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。 文学は、トルコ語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたオスマン語が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(トルコ文学の記事も参照)。 楽人(レヴニー画)美術の分野では、イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。 音楽はアラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、チャルメラ・ラッパや太鼓の類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(トルコ音楽の記事も参照)。 園芸では、チューリップ、ヒアシンス、アネモネ、ラナンキュラスなどが庭園で栽培され園芸植物化され、多くの品種を生じた。これらは16世紀にヨーロッパに伝えられ、フローリスツ・フラワーとして発展し、現在も重要な園芸植物として扱われている。 オスマン帝国史を題材にとった歴史文学には、トルコ人の作家オルハン・パムクの『わたしの名は紅』藤原書店がある。パムクはこの小説によって、2006年ノーベル文学賞を受賞した。[1] 日本の小説では塩野七生の『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』(いずれも新潮文庫)などがある。